うっかり掘り起こした骨がうっかり左胸にぶっ刺さった(オカワダアキナさん『晩年のままごと』を読んで)がしかし、生きている

振り返れば損なわれてしまうかもしれないというおそれによって書くことのできない脆弱と晩年にようやく踊る身体になれるひと。夢枯れてみんな死ぬ。しかもしあわせに。


そんなの!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!


オカワダアキナさんの『晩年のままごと』を読みました。
あまぶんサンタになれませんでした。

あまりにもつらかったので、先日お会いした時におかさんにつらかったんです、って何度も言いました。(あれは思い出せば絡んでいた、すみませんでした)。『晩年のままごと』。なにかおそろしい引力を感じて買った。合同誌でご一緒したり打ち上げなどで同席したりしていたのにおかさんのご本をちゃんと読むのははじめてという不義理!(かといってこれを読んだことにかんしては義理ではない、本命……)。

つらいとかいっぱい書いたけど、『晩年のままごと』およびオカワダアキナさんになにがしかの悪感情を抱いているとかではありません。ただ自分がおセンチな読み方をしてしまい、つらいと言ってしまった。どうかご寛恕ください。

人間関係の不良なんですよね。
仲良くなれるんです、そしてどうでもいいんです、でも愛する機能を働かせることができるんです。だから愛しすぎてしまって時折つらい。もう断絶してしまった、かつて愛したいろいろな(とてもわずかな)ひとたちを思い出す時、昔のままの自分と彼と彼女がいる。いまの自分はきっと幻滅されるだろうと思う。彼や彼女がいたときの自分というものは、明晰で、鋭敏で、繊細で、ユーモアがあって、輝きを引き出されていた、引き出しあっていた(と美化するところまでがお約束です)。
実際輝かしくて尊い、過去です。
わたしは頭がいいひとが好きで、天才的なひとによくよく惹かれました。そのときの自分は追いつこうと足掻く努力家でした。彼女に取り入り、けっこう露骨に近寄って、それから仲良くなりました。とても。努力するひとにもよくよく惹かれました。そのときの自分はは生まれついての天才でした。(そのような存在だと錯覚していました)。仲良かったです。すごくとても。周りの人にあらぬことを疑われるくらい。そして誰にも代えがたい、生まれる前から親同士の縁があり、あたりまえのように特別な幼馴染。彼女がいればわたしは他の人間がひとりも必要じゃないと思った時期もあった(主に、思春期に)。

うまくつながっていません、もう。
恋はしませんでした。

万事この調子で読み進めてしまい悶絶必至です!……嫌なひとは読まないでくださいね!
もう年末だからいいかなあと思いながら、好きな箇所をぴっくあっぷしつつ感想を書こうと思います。個人的すぎてなにも伝わらないので感想というのも気が引けるのですが、とにかく総括すると「つらい」です。




▽▼▽▼▽▼



 冷静。冷静になれとわたしに言っているみたいだ、なんてふと目にしたものから時分へのメッセージめいたものを受け取ってしまう、受け取ったような気になる、こういう物欲しげな癖はもうやめにしたい。p.15


ほんとうだよ!!!!!!!!!!!!!!!!!
「こういう物欲しげな癖」!だと!?こなくそ!


 どうしようもない老後の日々だと思った。 p.19


上のような、愛するひとがいないとき、これを思うことがありますね。とはいえわたしはまだまだ青年なので、さすがに晩年だーと言い出すのは無理です。こわいです。老後なんて……老後を迎えずに死んでしまうほうがいくらかよかったんです、きっと、カタリナは。


 当時わたしたちはとても仲が良かった。だけど卒業したらあっというまに疎遠になってしまった。家だって離れていたから、一緒にいたのは高校の三年間だけだ。どうしてだろう?
 たぶんあの頃、仲が良すぎた。それぞれ別の生活を始めて、変わってゆく姿をみたくなんかなかった。 p.30


ここは半泣き+ぶちゃキレながら読みました。
これリアルすぎていやです。「たぶんあの頃、仲が良すぎた」そうですよね。みたくないんですよ、それにきっとその頃の自分は「手放すことのうつくしさ」といったものに浅い憧れを抱いていました。こんなに仲が良かった、こんなにも大切だった、でも棄ててしまおう!だって青年になるのだから!というふうに。これは思い出すと心臓がかなりドキドキして嫌な汗が流れます。でも、暴かれるんだ。腹立つよね~……。


 そして、骨にはどのような役もできそうにないなと思った。 p.53


ウッ!そうですね。
きっと再会したときにはもう白骨のようなものです。そのときに美化に美化を重ねてぶくぶく肥っていた思い出のなかの彼や彼女も白骨だったと気がつくんです。纏わせていたのはわたしの肉の欠片だけだったんです。そんなものを後生大事にとっておきたいんです。だから突きつけないでほしい。現実に帰りたくない。現実がつらいわけじゃないし、普段彼や彼女のことなんて(もう断絶してしまったので)思わないんですよ。たまたま見つけてしまったSNSをウォッチしたりすることはあるんですけど、そのカタリナの行動、めっちゃわかるんですけど!
でも骨にはどのような役もできそうにない。できそうにないというか、できない。
のちのカタリナが視る夢に出てくるキリエは骨と踊っている。骨とセックスする。これって、でも、ちょっと救いでした。結局キリエ(彼や彼女)も、わたしと同じように骨となったわたしに似たものを求めていたかもしれないと思えたんです。って書いてからこれは自分クソ気持ち悪いなと思っていま泣きそうになったんですけど、思いあっていたと思えた。これは『晩年のままごと』が小説で、わたしはわたしの世界しか見ることができないということを超えているから、小説でよかったなあと思ったところです。個人的なことばかり書いているとこの作品が小説である必要があったのかとか考えるんですけど、そうじゃなかった。よかったーって思った。でも骨ですからね。


 「――僕はもう生きるのがつらい」 p.57


これはただキリエがひたすらかわいいというポイントです。こんなこと言われたらわたしはねえ、落ちるよ。


 『でね、最後、カタリナとドイツ式フライドチキンっていうのを食べて目が覚めたんだけど』
 キリエの夢にわたしが登場していたので、なんとなく訂正しそびれました。 p.81


ここもひたすらかわいい。
けど、「なんとなく」訂正しそびれたカタリナのすがたがわりとつらい。カタリナはしばしば「めんどうだったから」とか言うタイミングを逃して思ったことを言わないのですが、その言い訳がましい前置きと、言わないという事実においてつらい。説明できない。


 「でも全然どきどきしてなくない?」
 「してなくはないよ」 p.91


カタリナがキリエの心臓の不在に気がつくより前に、右か左かという前に、キリエはカタリナの心臓の不在を、ときめきの死を観察しているように感じられた。前頁の「心臓が鳴ってる」は普遍的な意味しかないのではと思った。どきどきしてない。でもその平静さで愛することができる関係が!これ!TURAI!そういうものでしょ?ってちょっと訳知り顔をしたいんですけど、知りません。……いや。


 キリエはおとこではないから、そんなことに何か奇跡みたいなものを求めたりはしないのだろうか? でもそれをかなしく感じてしまうなら、わたしにはキリエを愛する資格みたいなものがないんだろうか? p.92-93


アーッ!
かなしく感じてしまうなら。愛する資格みたいなものが。ないんだろうか!
ここは文章もとても好きで、内容もとても好きで。この直後の骨と踊るキリエ、うらやましく遠い踊れる肉体のキリエが!いやだ!と思いつつ彼女は骨と踊っている。カタリナの脱殻、ふたたび会ってしまったときにキリエが抱いていたであろうまぼろしは、白骨で、幻滅でも、キリエは骨と踊れる。そんなのやだ!かなしい!踊るな!


 「さよならしよう」
 「え?」 p.105


チャーミングな弟は『晩年のままごと』の登場人物のなかでとても好いなあと思ったキャラクタでした。夫も同様。それっておとこだからだろうか。わからない。少なくともカタリナについては、そうだったのかなあ。かわいいよね、弟。りなちゃんて。


後半はもう付箋をつけなかった。
死んだーーーーーーーってなって死んだ目で読みました。死んだ……。
ひよこ饅頭なんて!あほか!と思いながら。とてもつらかったー。無理。どんなキリエもみつけたくない。このラストが彼岸だとしたって、こんなぬるい花火大会に参加してたまるかというふつふつとした怒りさえ感じる。でもそれが『晩年のままごと』で、老後の日々を送る30歳のカタリナのかなしみと老いなのだろうか。ひゃーん。しあわせに死ぬなんてゆるしがたい。こんな死に方をするなんてあなたが小説の中のひとだからだ!死んだことないからわかんないよ、わたしには!
こんなの書いたら、わたしだったら死んじゃうな。

カタリナの空想であり、キリエの空想であり。
芝居のなかで生きるカタリナの夫は、この物語を包括して概観するからきっと体験し得ないでしょうね、一生、このつらさ!と思った。(これもひどく身勝手なので、夫がつらい思いをしていたらどうしようと思う)。でも夫は、カタリナのキリエにはならない。結んでしまったから。そう言う意味で、交わってしまったキリエとカタリナは変わらないまま変わってしまう。弟はどうだろう。りなちゃんとの決別の軽やかさ、すぐに戻ってくることができたとして、なにかは決定的に変わる。それを表面化させない気安い弟の魅力はいまこうしてうだうだしている人間にはうらやましい。
白骨が突然玄関先にいたらとても嫌だ。そんなふうに突き付けられたくない。……と思いながら、自ら『晩年のままごと』を手に取ったはずなのに、さも突然玄関先にぽいしてあったみたいに嘆いてしまった。カタリナとキリエなんて。どうして一緒にいられないんだろう!わかっていながらこの想いが尽きない。そんなの無理ですよね。でもお話だから、花火、できるんだなあ。いいなあ。ムカつくねえ。
あんまり尊いひとなんていないほうがいい、とは口が裂けてもいえない。そのときに抱いたたくさんの思いはとても小説に書けることではないから、こうしてブログでゲロゲロと吐き出している。作品にしてしまったら損なってしまうようでかなしい、そんな感傷が自らの若さなのか、それとも気質なのかはわからないけれど。一番好きなものは最後に食べるタイプです。でも、腐れるほどほっておきはしないよ。
実際なにもかもスパッと断ち切るなんて無理で、カタリナが娼婦のキリエを見つけたみたいに、わたしは見つけてしまう。新年になると、なんとなくあけましておめでとうをしようか迷うし、年賀状が来なくなった年は切なかった!年賀状の習慣は、以来廃止しました。




ところで先日の忘年会では、そにっくなーすさんと感情がのっぺりする話をしました。あるものはあるままに受け取るわたしの諦めが感受性の鈍さに繋がっているようで嫌だ、かといって激しさのまま生活したらとてつもなく苦しいだろうしいらない、といったような。
輝きてえ。あほかって思うじゃないですか。でも輝きたいです。
おもしろい会話をしたい。どんなに趣味が違っていてもなぜか相手の考えが手に取るようにわかってしまうときの快感って何事にも代えがたい。ツーカーで話して、脳みそを抱きしめるみたいな関係って、たしかにあったんですよ。そんなひとと出会えたことが奇跡的なんで、手放してもきっと別の人があらわれるかも(王子様のことじゃないですよ、これは。運命の対の話でもないんです、もう断絶を経ているので)と思うじゃないですか。いないですよね。なんか。はじめの一歩をわたしが踏みだせていないだけなのか、それとも過去がうつくしすぎたのかはわからないです。青年だなんてばかばかしいのですが、大人になりつつあるのでなんだか。嫌です。

とある日、日光のやっすいホテルで布団を並べて、幼馴染と決別しました。いまでも付き合いはありますが、突然互いの家を訪ねたり、電話したりはしなくなりました。
「わたしたちなんか違くなったよね」
とわたしが言ったら、幼馴染は、
「というより、あんたが違うって思ってることがわかる」
と言いました。
このときめちゃくちゃ感動して、かなしくて、もう無理だって思ったんです。同時に違うって思ったのがわたしからだったことがやるせなくて、思ったくせにどうしてこのままでいられないんだろうとゼツボウでした。つまり高校の卒業旅行だったんですけど、もとから同じ高校に通っていたわけでもないのに、大学が離ればなれになったっていままでの距離を物理的に維持することは可能だったのに、もう無理です。こんなこと書いてると万一目についたらひとをコンテンツにするなと怒られそうではありますが、なんかもう『晩年のままごと』を読んだら書きたくなったのでしようがない。
ほんとうは彼や彼女のことも書きたいのですが、それはもう幼馴染ほど決定的でもなければ土台のようなものがあるわけではないので、やめます。嫌われたらヤダ……(保身するだけ、いまでもわたしのなかの彼らは愛すべき存在で、それを書きながら思い知らされるのでつらいです)。

この散々言っている「つらい」もたぶん愚痴めいていたり、生活で良く発生する「つらい」とはちょっと違って、なんというか、説明できない!わたしが経験してきた代えがたい人間関係に強く紐づいている「つらい」なんです。こんな人間関係を経ているひとはみんな『晩年のままごと』を読んでほしいし、つらくなればいいのにって思います。いま、特別に尊い大切なひとがいるひとも『晩年のままごと』を読んでこわくなってほしいですね。

いいとか、おもしろいとか、ぜんぜんそういうんじゃなかった。でもおかさんありがとうってすごく思った。このブログ、あまりにも私的なので、年が明けたり恥ずかしくなったら消しちゃうかもしれないけど、それは『晩年のままごと』のせいじゃありませんので、あしからず……。こんなセンチメンタルに巻き込んでしまってすみませんという気持ちでいっぱいになりつつも、半泣きですでに許して状態なので、もうだめ!です!メリークリスマス!

みなさんは良いお年を迎えてください……。
わたしは記憶力が弱いので一年の総括ができるかわかりません……。



落山羊
 

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